「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」(2024)を見てきました。前作である「ジョーカー」 (2019)についてもネタバレを含めた感想です。また、「ダークナイト」(2008)にも少し触れています。
わたしは「バットマン」シリーズに関しては「ダークナイト・トリロジー」しか見てないので、「ダークナイト」でのヒース・レジャー版ジョーカーしか知りません。ダークナイトでのジョーカーは自らを「混沌の使者」と称していたように人外の怪物といったキャラ造形で、このあたりは共通認識かなと思っています。
で、「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」の前作「ジョーカー」は、「誰でも○○○になりうるし、誰でも他人を○○○にしてしまう」という社会風刺物語の「○○○」に、特に有名な「ジョーカー」を当てはめてみた、という作りだったと理解しています。そのため、この作品でのジョーカーはダークナイトにはつながらないし、何ならバットマンと戦うこともない、そもそもこの作品世界にバットマンは当然として、タイトルロールである「ジョーカー」すらも存在しないのでは?と思っています。
もう一つ重要な点として前作「ジョーカー」は、実はほとんどの場面が主人公であるアーサーの妄想だったのでは?という描き方がされているようにも見えます。
というのを踏まえて「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」です。前作を見た人であれば「これは前作と同じく、ほとんどがアーサーの妄想なのでは?」という先入観というか、ネタが割れてると見てしまうと思います。
前作を見たことがない人でも、最初のほうの娯楽室でアーサーが歌う場面、鳴るわけがない豪華な伴奏であったり囚人達が一緒に歌いだしたり何だかおかしいな、と思った次の瞬間にはアーサーが棒立ちの図に切り替わるので、「あ、今の陽気なシーンはすべて妄想だったんだな」と気がつく作りになっています。
あからさまというか親切というか、ミュージカル風のシーンはすべてアーサーの妄想ですね。ただ「ミュージカルは全部妄想である」からといって「ミュージカル以外は妄想ではない」というわけではなさそうです。そう思わせるミスリードを狙っているのかどうかは意図がわかりませんでしたが、わたしはミュージカル以外もアーサーの妄想の場面があると受け取っています。
極端なことを言ってしまうとハーレクインも弁護士との面談もテレビのインタビューも裁判も囚人殺しも暴動も何もかも存在しない、すべてアーサーの妄想という見も蓋もない話だった…という、さすがにそれはあんまりという深読みすらしてしまいます。
わたしとしては前作の「ジョーカー」で「誰でも○○○になりうるし、誰でも他人を○○○にしてしまう」という大きなテーマを描ききってしまったので、2時間まるまる使ってもどうせ全部妄想なんでしょ…と思われても仕方がない、蛇足感を越えてこなかったなあ、というのが感想です。